親が老いることの実際
ほぼ日で毎週水曜日に山田ズーニー先生が『おとなの小論文教室。』と題してコラムを書いていらっしゃいます。
2011年5月11日の記事から連続して『おかんの昼ごはん』という連載が続いているのです。
読者からの反響も多いようですが、同じく私も、このことについてはとても考えさせられました。
なにより、ズーニーさんの言葉に、読者からのおたよりに、心が揺さぶられまくりです。
内容としては
- 親の老い
- 青春の終わり(親の老いを受けての)
- なすべき1つのこと(自分自身の人生の短さも悟っての)
この3つの柱があるようです。
まとめるのは苦手です、すみません。
もし興味があれば読んでもらうのが一番だと思います。
誰にでもやってくること
その中で一番心に響いたのは『親の老い』についてでした。読者の方がある歌を紹介してくれていたのですが、その歌詞がとても切なくて、どこか暖かくて、私の中の介護に対するネガティブな気持ちをかなり軽減してくれました。
その歌は樋口了一さんの『手紙 〜親愛なる子供たちへ〜』。
この歌を知っているのと知らずにいるのとでは、親の最後の見守り方が違ってくると思います。
私は母を、20歳の頃、約2年間の闘病生活の末亡くしてしまったのですが、今思い返しても後悔ばかりです。
もしその時この歌を知っていたなら…
私はこれから先、この歌の言葉を絶対忘れない。
この歌が胸にあれば、その時の迎え方が20歳の頃の私とはきっと違うはずです。
そうであって欲しいし、そうでなければならない。
覚悟のような想いが今はあります。
親はいつまで経っても親
例え親が年老いて、自分が面倒看てあげてる気になっていても、教えてもらっていることは遥かにこちらの方が多い。どれだけ子供が人として成長したか、試されてる気さえします。
親を看取ることは最後の親孝行でもあるでしょうね。